北の湖 敏満(きたのうみ としみつ、本名:小畑 敏満(おばた としみつ)、1953年5月16日 - )は、北海道有珠郡壮瞥町出身の大相撲力士、第55代横綱。引退後、一代年寄北の湖となる。現在日本相撲協会理事、前理事長(第9代 2002年2月 - 2008年9月8日)。[1]。血液型はAB型。
横綱時代の体格は、179cm・169kg。三保ヶ関部屋所属。得意手は左四つ、吊り、寄り、上手投げ。幕内優勝回数24回、先輩の大鵬幸喜、後輩の千代の富士貢に並ぶ戦後の大横綱の一人である。重量感と馬力を存分に感じさせる相撲で1970年代後半に一時代を築いた。
息子は俳優の北斗潤。
入門から横綱昇進まで [編集]
農協職員の家に生まれた(この日はNHKによって初めて大相撲テレビ中継が行われた日である)[2]。少年時代から体格に恵まれており、ただの巨漢ではなくスポーツ万能、特に柔道は強く中学1年で初段となり、高校生を破って町の大会で優勝。
多くの相撲部屋から勧誘された中から中学1年で三保ヶ関部屋に入門し、墨田区立両国中学校へ転校。入門時のエピソードとして、小学6年の時すでに三保ヶ関親方が目をつけ「もう少し身長が伸びれば連れに来る。よく寝れば身長は伸びるよ」とアドバイス。このことを忠実に守って暇さえあれば寝ていたため両親が悲鳴を上げ、予定を早めて入門したという(三保ヶ関夫人が手編みの靴下を贈ってくれたのが入門の決め手になったともいう)。1967年1月場所に師匠の長男である後の大関増位山とともに初土俵。
四股名は故郷壮瞥にある洞爺湖にちなんで師匠の三保ヶ関がつけた。湖を「うみ」と読ませたのは水上勉の小説『湖の琴』(うみのこと)からの着想という。改名の多い角界において珍しく、初土俵から引退まで一度も四股名を変えたことの無い力士であった(番付で北乃湖と誤記されたことがあった)。現役引退後も一代年寄「北の湖」で通している。
柔道を始めとし、野球、水泳そしてスキーで鍛えたスポーツ万能の体を生かしてスピード出世。当時の最年少昇進記録を次々に樹立。中学生(15歳9ヶ月)で幕下昇進するなど「北の怪童」の異名をとった。ただし途中、三段目で全敗した事もある。横綱で幕下以下の全敗経験者は現在まで北の湖一人である。また、十両以下での優勝(下位優勝)経験が皆無で横綱に昇進した。なお、下位優勝経験なしの横綱は北の湖の他に、玉錦(第32代横綱)、双葉山(第35代横綱)、栃錦(第44代横綱)、曙(第64代横綱)がいるが、いずれも一時代を築いた大横綱である。
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当時、中学校在学中に相撲部屋に入門し、学校に通いながら大相撲の土俵に上がる力士は北の湖のほかにも多くいたが、社会通念上問題があるとされた。北の湖が大活躍したため、特に話題になったとも言われる。1971年11月場所中に監督省庁の文部省(当時)から日本相撲協会に正式に通達が出されたため、協会はすぐに既に入門している中学生力士たちを帰郷させ、さらに入門条件に「中学卒業(義務教育終了)後でなければ大相撲に入門できない」と言う条項を加えた。そして場所後に中学生の力士採用禁止を正式決定している。北の湖以降も、後の大関琴風らが中学在学中から土俵に上がっている[3]。
1971年5月場所、17歳11ヶ月で十両昇進。1972年1月場所、18歳7ヶ月で新入幕。1度陥落したがすぐ再入幕。1973年、19歳7ヶ月で小結に昇進。同年11月場所関脇。9勝2敗で迎えた12日目に足首を骨折したが以降も出場し続けたこと、そして千秋楽に10勝目をあげたことが自信となり、後々まで心の支えになったという。そして1974年1月場所、14勝1敗で初優勝して大関に昇進すると、5月場所で2度目の優勝。翌7月場所も優勝決定戦に進み、史上最年少の21歳2ヶ月で横綱まで一挙に駆け上がった。関脇・大関昇進・初優勝は大鵬に譲ったものの十両・幕内・三役の昇進記録はいずれも当時の史上最年少記録で、しかもそのいずれもが後に貴乃花に更新されたが、横綱昇進時の最年少記録は現在も保持している。
横綱時代 [編集]
5場所連続優勝した1978年前後が全盛期と見られる。「憎らしいほど強い」と言われ、敗れると観衆が湧いた。悪役的な扱いをされることも多く、1960年代に子供の好きなものが「巨人、大鵬、卵焼き」と言われたのをもじり、嫌いなものの代名詞として「江川、ピーマン、北の湖」という言葉が生まれた(ただし「巨人、大鵬、卵焼き」ほど定着しなかった)。他にも「不沈艦」や「モンスター」というあだ名も生まれた。
北の湖が嫌われた大きな理由の1つに挙げられているのが、「倒した相手が起きあがる際に手を貸さず、背を向けてさっさと勝ち名乗りを受けてしまう」ことだった。この理由については、北の湖自身が「自分が負けた時に相手に手を貸されたら屈辱と思うからだ」と語っている。
1977年3月場所は全勝の北の湖を1敗の輪島が追いかける展開だったが、13日目の結び前に輪島が敗れ、結びで北の湖が若三杉(のちの2代若乃花)を破って優勝を決めた瞬間、館内には不満や抗議の意味で座布団が舞うという異常な事態となった。強い横綱が敗れ金星を提供してしまった際に、勝った下位力士を讃える意味で座布団が舞うことは多いが、横綱が勝って座布団が舞うというのは前代未聞だった。しかしこれに動じず北の湖は残りの2日間も勝って全勝優勝を果たしている。
北の湖と同時代には絶大な人気を誇った美男力士が多く(貴ノ花、2代若乃花、千代の富士、蔵間など)、そういった人気者をなぎ倒す北の湖は必然的に敵役となる運命にあった。それでも真摯に土俵を務める姿や圧倒的勝負強さから、北の湖に魅了されるファンも存在した。
先輩横綱の輪島は最高の好敵手であり、2人で「輪湖時代」を築いた(輪島との通算成績は21勝23敗でほぼ互角。優勝は両者合わせて38回で、これは柏鵬の37回を上回る)。
優勝回数24回、連勝記録32勝、幕内での50場所連続勝ち越し、37場所連続2桁勝利の堂々たる記録を持つ。1978年に記録した年間通算82勝は2005年に朝青龍(年間通算84勝)に超えられるまで27年間最高記録だった。なお、1977年9月場所から1978年7月場所までと数え方を変えた場合ではあるが、1年6場所で85勝5敗という記録を保有している。
37場所連続2桁勝利を続けた1975年9月場所から1981年9月場所までの6年間は、ほぼすべての場所で終盤まで優勝争いの中心に存在し続けた。
初土俵から1度も休場しない抜群の安定感を誇ったが、1981年の夏巡業中に右膝を痛め、同年11月場所9日目、ついに休場。翌1982年1月場所は優勝したものの、足腰の故障との戦いが続き、途中休場も増えた。ついに第一人者の座を千代の富士に明け渡し、完全に世代交代してしまったかと思われていた1984年5月場所、久々の優勝を15戦全勝で果たした(13日目に弟弟子の大関北天佑が隆の里を下した瞬間に北の湖の優勝が決定し、控えに座る北の湖に北天佑が微笑むと、北の湖も思わず笑みを返したシーンは有名)。結果的にこれが最後の優勝となった。
全盛期を過ぎ力が衰えたことへの同情から、この時期になるとかつての悪役イメージは薄れ、勝って拍手が贈られることもあった。後年、北の湖は「(観客から)負けろと言われていた頃はこっちも燃えて来る性格だから良かったのだが、引退間際になって頑張れと言われた時は自分でも情けなかった。そのために勝ちたいという意欲も薄れてきてしまっていた」と述懐している。
翌年の1985年1月場所、こけら落としの新両国国技館の土俵に現役で臨んだが、実は怪我が完治せず土俵に上がれる体ではなかった。それでも、春日野理事長から「晴れの舞台に横綱が休場することはできない。潔く散る覚悟で出よ」との言葉を受けて強行出場となる。新国技館での北の湖は初日旭富士、2日目多賀竜に全く良い所無く敗れて2連敗、結局勝ち星を一つも挙げることなく、5年時限の年寄襲名前提で引退届を提出した。引退表明後、協会より現役時代の功績に対し一代年寄が授与され、一代年寄北の湖となった。
強さ [編集]
全く手をつけず(手をつける仕草を見せるだけ。しかしながら当時はほとんどの幕内力士が手を下ろす立合いを行っていなかった)、中腰で低い重心から立合いかちあげるか、右上手を引いて、相手を吹き飛ばすかのように土俵外へ出すのが代表的な取り口。左四つに組み止めての右上手投げには威力があった。
両廻しを充分に引きつけ、腰をよく落としての怒涛の寄り、巨腹に乗せた吊りも得意とし、地力の強さは際立った。一方で巻き替えが上手く、取り組みで常に多用したため、評論家からは「横綱の相撲としてはいかがなものか」と批判もされた。しかし、元横綱安藝ノ海には、「あの巻き替えがあるから勝てるのだ」と絶賛されていた。右四つになっても右腕(かいな)を返して腰を下ろせば盤石で、こうなったときの識者からの評価は高かった。
突っ張りもあり、関脇までは押し相撲が主体だったが、足首を怪我してからは四つ相撲に改めた。巨体ながら非常にスピードがあり、器用さも兼ね備え、その相撲には独特の躍動感があった。
現役時代に北の湖に勝ち越した力士は少ない。ほとんどの力士には大きく勝ち越し、完封もいる。典型的なのは栃光で、29戦全勝というもの。栃光は取り口にムラがあったと評されるが横綱と29回も当る番付におり、決して弱い力士ではない。もう一人、蔵間に対しても17戦全勝と圧倒している。後の横綱三重ノ海が、全盛期の北の湖に何とか勝とうと、奇策猫騙しをしたのも話題になった(ただし奇策は通じず三重ノ海は敗れている)。
北の湖は負けると騒がれた。殊勲者として昇進後前半では黒姫山、麒麟児、栃赤城。後半になると若島津、大寿山などがいる。若島津とは左がっぷり四つからの投げ合い。大寿山とは吊り出し合戦。また、現役後半の好敵手千代の富士は、横綱に昇進してからは互角に近かった。
強烈に強い反面、一度負けた相手に翌場所も連敗するという脆さを見せることがあった。また初顔合わせの相手に取りこぼすことも多かった。4代朝潮とは相性が悪く、7勝13敗(不戦敗1含む)という不本意な成績に終わっている。朝潮との取り組みでは自分の相撲を忘れてしまっていたとコメントしているとともに、遠まわしに「朝潮の顔がおかしくて、力が抜けた」とも言っている。いずれも全盛期を含めてのことである。北の湖はせっかちな点があり、立ち合いまでの所作が速く、相手の所作が遅いといらだちの表情を見せ、制裁の意味からか勝負を急ぐところがあった。朝潮を苦手としたのもこのためとの見方がある。朝潮は立会いまでの動作が遅く、相手が横綱でも合わせようとしないので、北の湖がますます苛立ったのではないかと思われるからだ。
優勝決定戦に弱く、負けて優勝を逃すことが続いた。大関だった1974年7月場所では、横綱昇進を決定的とし2場所連続優勝という花を添えるべく臨んだ千秋楽で、横綱の輪島に本割り、決定戦と連敗。まず負けないだろうと思われた相手とのときも勝てず、優勝決定戦では初回から実に4連敗している。1976年5月場所、輪島に勝ってやっと決定戦初勝利。1978年3月場所、5月場所と2場所続けて大関若三杉に勝つまで「決定戦に弱い横綱」と評された。通算成績は3勝5敗である(対輪島1勝1敗、対魁傑1敗、対貴ノ花2敗、対若三杉2勝、対千代の富士1敗)。千代の富士と決定戦を戦った1981年1月場所のように「自力逆転優勝(直接対決で並び、決定戦で勝つケース)なるか」というところまで、逆転優勝を達成することはなかった。
通算24回の優勝のうち東京場所で16回優勝した(大鵬と並ぶ最多タイ記録)が、地方場所ではなかなか優勝できず、このため特に横綱昇進直後には「地方場所に弱い」と評されることもあった。結局地方場所の初優勝は横綱昇進から2年以上経った1976年11月場所(7回目)であった(11月場所での生涯唯一の優勝)。その後は「荒れる春場所」と言われる3月場所で5連覇(1977年?1981年)を果たすなどして評価を覆したが、1981年3月場所の優勝(21回目)を最後に引退までの約4年間地方場所での優勝はなかった。地方場所での優勝は結局8回で大鵬(東京場所、地方場所共に16回ずつ優勝)、千代の富士(東京場所で13回、地方場所で18回優勝)に比べると東京場所での強さが目立っていた。
負ける際は、土俵際でしぶとく粘ったりせず、案外あっさりと土俵を割ることも多かった。比較的怪我が少なく、10年以上横綱を務められたのは、無理な体勢で頑張ることが少なかったからという意見がある。