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クリミア戦争

クリミア戦争(クリミアせんそう、英語: Crimean War、ロシア語: Крымская война)は、1854年から1856年の間、クリミア半島などを舞台として行われた戦争である。

フランス、オスマン帝国およびイギリスを中心とした同盟軍及びサルデーニャとロシアが戦い、その戦闘地域はドナウ川周辺、クリミア半島さらにはカムチャツカ半島にまで及んだ近代史上稀にみる大規模な戦争であった。日本では汎スラヴ主義を掲げるロシアのイデオロギーや南下政策がもたらした対立の一環であるとの見方が定着しているが、むしろ勢力が衰えつつあったトルコを巡る利権争いに原因を見るのが日本国外では一般的である。

この戦争により後進性が露呈したロシアでは抜本的な内政改革を余儀なくされ、外交で手腕を発揮できなかったオーストリアも急速に国際的地位を失う一方、国を挙げてイタリア統一戦争への下地を整えたサルデーニャや、戦中に工業化を推進させたプロイセンがヨーロッパ社会に影響力を持つようになった。また北欧の政治にも影響を与え、英仏艦隊によるバルト海侵攻に至った。この戦争によってイギリスとフランスの国際的な発言力が強まりその影響は中国や日本にまで波及した。

背景 [編集]

ナショナリズムの台頭 [編集]
19世紀中ごろに、ナポレオン以後のヨーロッパ社会に比較的長期の安定をもたらしたウィーン体制が各国の利害関係の複雑化などから揺らぎ始めた。やがて広大な領地に異なる文化や宗教を唱える民族を多数抱えるオスマン帝国のような多民族国家では、被支配民族を中心にナショナリズムが台頭するようになった。

なかでも、ボスニアやヘルツェゴヴィナは民族的にはスラブ系でも、宗教的な支配層はムスリムであり、そして被支配層としてはキリスト教徒が多数であったがゆえに、ほとんど工業化が進んでいないこの地域では人口の大多数が封建領主に搾取される貧農であったので、度々セルビアやモンテネグロの反トルコ運動の宣伝に使われた。

トルコは、近代化よりもまずはこの地方の安定化を優先させる事を意図してキリスト教徒の被支配層にある程度の平等を宣言して税制の公正化を図るなどして、問題の解決に奔走していた。しかし、1848年からの一連の革命を機に起こした運動が失敗したために、農奴状態の農民がさらに悲惨な状況に追い込まれることを危惧したトルコは、不安定ではあるが再び支配権が確立された後に、この地域への農業改革(自作農化)を求めた。これに対して、支配層のムスリム貴族たちが反対したためにトルコは1850年にドナウ方面軍司令官オメル=パシャを派遣して反対派をサラエヴォから追い出して一時的に秩序の回復に成功するが、蜂起した農民の武装解除には至らなかった。

ロシアとトルコの直接の対立の発端となったのは、トルコが支配していたエルサレムをめぐる聖地管理問題であった。フランスのナポレオン3世が個人的な名声を得るために国内のカトリック教徒におもねって聖地管理権を獲得すると、ギリシア正教を国教とするロシアのニコライ1世がこれに反発した。ロシアは正教徒の保護を口実にしてトルコ全土に政治干渉し、これがモルタビアとワラキアへの兵力投入につながっていく。

諸国の策略とイギリス外交の不調 [編集]
1852年にモンテネグロのダニーロ2世(モンテネグロ公)は、ロシアとオーストリアの賛同の元に制定した新憲法にトルコが反対したことを理由に挙兵し、同年にヘルツェゴヴィナ東部で発生した農民反乱を支援してトルコ軍を攻撃し始めた。地の利があるモンテネグロがヘルツェゴヴィナから越境攻撃を繰り返すゲリラ戦を展開すれば、これに対して、苦戦を強いられたトルコ側は、オメル=パシャによってスクタリから武器を買い付けてボスニア人ムスリムに流すことによって対抗した。こうして戦況は次第に泥沼化していった。

モンテネグロはセルビアからの支援を受けて善戦するも兵力の上で圧倒的に不利なため、1852年12月にトルコがアドリア海に艦隊を派遣すると、ロシアからの助言の下に和平交渉の準備に入り、1853年1月にダニーロ2世の叔父にあたるジョージ=ペトロヴィッチが使者としてペテルブルグに赴いて、ロシアにトルコとの仲介を依頼した。

一方で、戦線の拡大を望まないオーストリアもトルコとの講和を打診するものの、2月からの交渉においてトルコとモンテネグロとの双方が講和に合意するには至らなかった。これに加えてアルバニアでフランスの支援を受けたトルコ軍の前にモンテネグロが大敗北を喫した。

モンテネグロがこのような危機的状況に陥ったことを受けて、汎スラヴ主義を掲げる体裁上バルカン半島を無視できなくなったロシアは、プロイセンを仲介してトルコに使節団を送って双方に停戦を合意させた。この時点でロシア皇帝ニコライ1世はこの問題に関してトルコと対立する側に立てば必ず英国やフランスとも対立することになるだろうが、オスマン帝国領を分割することで妥協できると踏んでいた。これがいたずらにロシアの行動を助長することにつながった。しかし、外相カール・ロベルト・ネッセルローデが苦言を呈したように利害関係が複雑化してしまっている以上、いたずらに各国の疑惑を呼ぶような行為は賢明ではなかった。

ロシアのニコライ1世としては、イギリスについては首相が第二次ピール政権で外相として穏健外交を展開したロシア寄りのアバディーン伯だったので、イギリスとの関係は悪化しないだろうと踏んでいた。一方のオスマン=トルコの皇帝アブデュルメジト1世は第二次シリア戦争(第二次エジプト・トルコ戦争)で自分に味方してくれた当時の外相だったパーマストン子爵が内相としてアバディーン政権の閣内にいる限り、イギリスは援護射撃をしてくれるだろうという勝手な期待を抱いていた。

アバディーン内閣は連立政権であるため、首相を支持する一派はロシアに同情的でありながらも、クラレンドン外相やパーマストン内相はフランスと組んでロシアと対決すべしと考えていたために、外交方針が定まっていなかった。本来イギリスは、ロシアとトルコ(フランスが支援)といった関係国を仲裁しうる大国だったにもかかわらず、閣僚間の足並みの乱れから統一した外交政策がとれずにいた。更に選挙法をめぐっても政権内部が分裂様相をきたしていたために紛争当事国の仲介役をする状態になかった。よって、ロシアとトルコの両方がイギリスは自国を支援してくれるだろうとの勝手な期待を抱いたままに紛争が拡大していった。

開戦へ [編集]
1853年2月末にロシアはトルコに特使を派遣するが、選ばれたのは経験豊かな外交官ミハイル・オルロフではなくトルコ嫌いの軍人アレクサンドル・メンシコフだったため、不安になったネッセルローデはあくまでも不戦であると釘を刺した。

3月にイスタンブル入りしたメンシコフは、まずトルコ最大の債権国だったフランスの干渉を退けることに努め、交渉相手がフランス寄りのムスタファ・レシト・パシャであるかぎり話合いには応じられないとこれを頑なに拒否し続けたことからトルコ側は何度も交渉役を変更せざるを得なくなった。当初から難航が予想されたが、4月にトルコが領内の正教会信者つまりスラヴ系民族の生命と財産を保証するのであれば、ロシアは国際的な危機からの安全を保障するという合意が成立した。

ところが、この合意のなかにはスラヴ系商人に対する特権の付与なども含まれていたため、完全に蔑ろにされたフランスが猛烈に抗議し、様々な妨害工作をおこなった。エルサレムを巡る聖地管理権問題はこの一環といわれている。また、この時期にロシアがセヴァストポリで黒海艦隊に戦闘準備をさせ、オデッサで陸軍の大部隊が編成され、海軍のコルニーロフ大佐が突然ギリシャに派遣されたという情報がもたらされたため駐イスタンブル英国大使ストラトフォード・カニングはフランスと組んでスルタン・アブデュルメジト1世に様々な圧力をかけ、ついには金角湾に軍艦を並べて砲撃をおこなうなど強引な手段に出たことからトルコはロシアの提案を断ることになった。

こうして4ヶ月に及ぶ交渉は失敗に終わり、6月にメンシコフが帰国すると同時にロシアとトルコは国交を断絶。この間 オーストリア外相プーオルを中心としたウィーンで開かれた国際会議も失敗に終わった。 この4ヶ月後の10月に両国は開戦した。

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2009年04月15日 10:39に投稿されたエントリーのページです。

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